“ 1940年代前半、日本軍は勝連半島の南西に広がる中城湾を要塞化し、勝連半島の南西側の海岸をふちどる小高い丘を高射砲の陣地とした。1960年代、米軍はその一帯を、核ミサイルの攻撃基地とした。核ミサイルを守るための地対空ミサイル基地も造った。1973年、そこを引き継いで勝連分屯地ができた。「沖縄返還」前の日米の密約で、「米国政府は、沖縄に現存する核兵器貯蔵地である、嘉手納、那覇、辺野古、並びにナイキ・ハーキュリーズ(地対空ミサイル)基地を、何時でも使用できる状態に維持しておき、極めて重大な緊急事態が生じた時には活用できるよう求める」という合意議事録の記述がある。そのせいなのか、勝連分屯地は地対空ミサイル部隊の基地になった。
少しだけ時代が変わり、琉球弧での限定戦争を指向する米日の新たな戦争戦略のもとで、その主力である地対艦ミサイル部隊が、勝連半島に配備されようとしている。”