「投下された100万発(2000トン)もの焼夷弾は(NHKスペシャルでは32万発と紹介された)およそ2時間半の間、東京の隅田川沿岸を焼き尽くし10万人もの犠牲者を出した。
仮に32万発としても、この途方も無い数は、毎分2100発もの焼夷弾が2時間半にわたって降り注いだことになる。まさに狂気のなせる業である。その上逃げ惑う市民には超低空のB29から機銃掃射が浴びせられたのである。
とかく広島や長崎の影に隠れがちな東京大空襲であるが、ここで指揮をとったカーチス・E・ルメイは、回想記のなかで次の様に述べている。
「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…。」(東京を爆撃せよー作戦任務報告書は語るー 三省堂選書<奥住喜重・早乙女勝元>より)
全てが軍需工場だったというのである。民家ではなく。