『嫌い』という感覚への恐れというのがあった。それは怒りを感じたときにブチギレてしまう自分への恐れだったことのように思う。『嫌い』と『怒り』が曖昧だった。傷つきなのか怒りなのか嫌いなのか逃走なのか、とにかく何かスイッチが入った時の自分を抑えることが大変だった。キレないでいるためには、沸き起こる苛立ちを、頭に血が昇ることを抑えなくてはならない。自分の内側で暴れ出すモンスターに乗っ取られてしまわないように、平静を装わなくてはならない。精神の修行僧かのように、メラメラと燃えてくる怒りを無視して、そんな自分を見透かされないように最適化された笑みを浮かべるしかない。
身体的ポーズ以外は、全身全霊が充分にキレているんだ。キレてないんじゃない、表沙汰にしてないだけなんだ。
そこで、「だから『嫌い』にならないようにする。なんでも『好き』になってしまえばいい。何もかも『好き』でいられたら、頭に血が昇ることも我を失って過剰反射することもない。『嫌い』にならないために、なんでも『好き』になる。」
…そんな一理に生きてみたりもした。