ローティの哲学は「アンチ形而上学」が特徴。そこで「人間が本質的に持つ権利=人権」という形而上学的な概念は、むしろ「言葉により非-人間化」された相手手に対してより残虐に振る舞うことになる結果につながりかねないと批判する。
ローティが推奨するのは、分厚い物語の積み上げ、エスノグラフィによって残酷さを理解できる「共感」を養うこと。これは哲学者のような理論家よりも、作家やジャーナリストが向く仕事である——。
私の反論:
人権に関するローティの主張をうんと短く言うなら、「"人間の本質"といった理屈の言葉に頼るのは非-人間化された対象への残酷さを肯定してしまいかねず、かえって危ない。むしろ残酷さを避けるための"共感"を生み出す物語が大事である」ということになる。
それに対する私の反論は「問題なのは誰かを非-人間化する言説なのであり、人権ではない」「共感はコストが高い。人の判断コストを下げ処理容量を増やす上で、人権という理屈はやはり重要である」。
ローティの「語り直し、言葉の再記述が、"われわれ"の拡張、異なる人々の連帯のために重要である」「物語が重要である」という主張には同意する。ただし、人権はこの主張に矛盾しないと私は考える。
(続く