日本においてSDGsが"一人一人が生活を工夫しよう"と誤解させようとしていることは、「人権」が個々人の思いやりであるかのように誤解されている状況と似ている。どちらも、本来は「力を持つもの」に向けた概念なのだ。
SDGs(持続的な開発のための2030アジェンダ)の大事なところは、各国の政府、それに世界経済フォーラム(ダボス会議の主催団体)や、その他の経済団体が大筋で合意したこと。金融経済界の合意を作ったことは、大きな前進といえる。
一方、憂慮すべき動きも出てきた。米国の共和党支持の州は、環境に配慮する経済、経営を嫌い、「反ESG(ESGは環境・社会・ガバナンスの略で、企業経営に新たな指針を持ち込む動き)」を掲げる。ESGを市場経済の自由に介入する左派的な動きと決めつける。いまや「脱炭素は左派エリートの陰謀」みたいな言説が力を持ち始めている(トランプもこの立場)。
米国保守派の反ESGはいわば"反動のための反動"だが、斎藤幸平がマルクスを引いて「SDGsは大衆のアヘン」と唱えるとき、トランプら米国保守派と一緒にSDGsを攻撃する形になってしまう。
ここは再考の余地があると思うのです。