送還船は9月8日以降続々と上海に到着しており、その中には当然虐殺事件の被害者もいました。
ただ、迎える側もケガ人がいても地震なのかそれ以外の理由なのかは分からず、当初被災者達も自らが事件を告発するという事が出来ない人々でした。
10月12日に上海に到着した山城丸には日本の官憲の目をくらまして偽名で労働者になりすました王兆澄が乗船していました。
王兆澄は王希天の親友で、一緒に僑日共済会を設立し、8月31日に米国留学が決定していた王希天から僑日共済会の会長を交代して就任していました。
9月2日、王兆澄は暴漢に襲われ受傷し、王兆澄に代わって王希天が会長として行動し、その後虐殺される事になります。
王希天が行方不明となると王兆澄は必死の捜索を始めますが、日本の官憲による尾行・妨害にあい、活動の自由を失い、習志野収容者の送還がはじまった事から、帰国し調査する事を決断します。
当初王兆澄は10月5日の送還船に芝浦から千歳丸に乗船するつもりでしたが日本官憲の妨害にあい失敗、神戸に移動し再度乗船を試みますがこれも失敗し、翌日の山城丸にやっと乗船に成功します。偽名で労働者としての乗船でした。