社会運動をやっていた人が疲弊してバーンアウトする、というのはよく聞くことがあって、もちろんそういうことはあるのだろう。ただわたしには、社会的なことについて考えるために自分の時間を奪われ過ぎた結果、個人的なことをあるていど個人的なところから考え起こすことができなくなってしまうことへの揺り戻しにも見える。個人的なことは政治的なことで、でもだからこそ、政治的なことを政治的なこととしてのみ語っていれば、自分をその政治へと向かわせた「個人的なこと」は抹消・消去され、その政治を語るのは「私」でなくてもよくなってしまう。それは、運動の出発点が失われるということでもある。だからきっと、個人的なことに個人的なこととして立ち返る時間が、同時に必要なんだろう。残念ながら、いまのわたしは「誰がやってもいいけれどわたし以外にすぐにやってくれる人がいなさそうだからわたしがやるしかなくなっている仕事」ばかりしている。もちろん、ひとつひとつの仕事は大切にしたいのだけれど。