二〇〇一年、わたしが国会にきたとき、経済論戦の大きなテーマになっていたのが、デフレ不況からの脱却でした。
〇一年四月、経済財政政策担当大臣となった経済学者の竹中平蔵氏は、デフレ脱却は「構造改革」のおくれにあるとし、不良債権処理をはじめサプライサイド(企業側)の改革を提唱しました。企業利益が回復すれば、やがてそれが家計にも波及し、デフレからも脱却できると主張していました。
それにたいし、わたしはデフレの原因は政府と財界が一体ですすめてきた賃金引き下げ政策にあるとし、直接、賃金を引き上げる政策に踏みだすようもとめました。
竹中氏とは五〇回以上、デフレについて論戦をしました。けっきょく企業利益は家計に波及せず、竹中氏の「構造改革」論は破たんし、デフレはつづきました。
いっぽう〇一年当時、参院財政金融委員会の質疑では、自民、民主の一部の議員が、デフレを克服するために、日銀にたいし大規模な金融緩和をやるべきだと、強く迫っていました。いわゆる「リフレ派」の議員たちでした。
そのころマスコミでも「リフレ派」とよばれる学者やエコノミストが注目を浴びはじめていました。「リフレ派」は、日本がデフレにおちいった原因は日銀がバブル経済の再燃を警戒するあまり金融緩和に消極的だったことにあるとし、日銀に大規模な「量的緩和」をおこなうように強くもとめていました。
「リフレ派」の主張は、銀行の貸出金利が下がれば、貸し出しが増え、物価が上がる、というものです。
日銀が「量的緩和」をおこない、銀行にお金を供給しても、経済全体の需要が低迷している状況では、世の中にお金は回りません。
じっさいにその後の経過をみても、「量的緩和」→金利引き下げ→景気回復→物価上昇という現象はおこらず、シナリオは見事に破たんしました。
にもかかわらず、当時の「リフレ派」の議員たちは、日銀にたいし一刻も早く大規模な「量的緩和」をおこなうようもとめ、それを拒否する速水優総裁(当時)をはげしく攻撃していました。
あるときわたしは、質問のたびに、速水総裁を執ように批判していた「リフレ派」の自民党議員に、「デフレの原因は実体経済にあり、金融政策では解決できないのではないか」と聞いたことがあります。そのときの答えにはおどろきました。
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