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tenjuu99 (tenjuu99@pleroma.tenjuu.net)'s status on Sunday, 23-Jul-2023 18:54:37 JST tenjuu99
やっぱりこれもやもやするな。
作品の内部に批評的な射程があり、批評家はそれを取り出すだけということになると、批評家の批評眼はどこにあることになるのか?というのが一点。
それと、廃棄される大量の作品群があって、そのなかからとくに岡崎さんや宇佐美さんの作品を選択するのが「作品に批評的/理論的な可能性があるから」ということになっているのが、恣意的な選択でないはずはないのだけど、その恣意性が客観的であるかのように語られるというのが、もう一点。恣意性がわるいわけでもないし党派的であってもいいんだけど、その恣意性が隠されてしまっている。
批評は、みずからの恣意的な判断を公共的なものとして主張することだとおもうから、それ自体政治的な活動だと言っていいけど、そこは曖昧にされていると感じる。
今回の場合だと、岡崎作品が主張するように、ある場所を「誰の所有でもない場所」として主張するというのは、それを強制的に成立させるような仕掛けがあったかというと結局なかったという結論になるとおもうんだけど(だからこそ撤去を左右できる権力による恣意的な判断がある)、高島屋という資本とのネゴでしか「誰の場所でもない場所」が成立しないということが矛盾していて、たぶんおおっぴらにそれを言っている人がいない気がする。そういうネゴシエーションにたいして作品内在的な可能性の開示することで「理解」してもらおうというのは啓蒙主義的すぎるのではないだろうか。
https://gendai.media/articles/-/113608?imp=0