「オカマバー」へ通い、「オカマさんって包容力がありつつサッパリしてていいのよねー!」と語る人が指す「オカマさん」は、フェミニンなゲイやトランスヴェスタイトではなくて、「オカマバー」での役割として提供されている「オカマ」の姿だと思う。
言い換えれば、「商品」としての「オカマ」だ。
「オカマバー」で働いている人が具体的にどういう人たちなのか、正直なところ僕はよく知らない。
でもきっとその中には、「オカマ」としての自分の在り方が好きで、居心地が良くて働いている人がいると思う。
それはもちろん、その人たちの当然の権利であり、生きる上での選択肢のひとつとして用意されていていいものだと、僕は思っている。
けれど、そういう個人の選択とは別に、「オカマバー」で「オカマ」としてのアイデンティティを商品化せざるを得ない社会構造があると思う。
一般社会に埋没する同性愛者としてではなく、「オカマ」というある種のキャラクタとして「商品化」することでしか居場所を得られない。そうでない在り方が、まだ社会に許容されていない、という現状。
そして、そういった社会構造に目を向けることなく、「オカマさん」を消費していく消費者たちが存在し続ける現状。
(この構造はもちろん、LGBTQ+の属性を「商品」化する、「オカマバー」以外の商業施設についても言える。)
もう一度言葉を重ねておくけど、すべての「オカマ」は商品として消費され搾取されている社会的弱者である、みたいなことを言うつもりはない。
個人の積極的選択を部外者が勝手に「弱者」認定するのは、とても侮辱的なことであると、僕は考えている。
僕が言ってるのは社会構造の話だ。
その構造は、エスニック・ツーリズムの構造とよく似ていると思う。
エスニック・ツーリズムとは、少数民族の文化や生活様式を体験したり鑑賞する目的で行われる観光のことだ。
日本国内で言えば、たとえば、アイヌ民族や、沖縄の独自文化を目的としたような観光がそれに当たる。
少数民族の文化・生活を観光資源の一つとして守ったり、地域を活性化する効果がある一方で、「マイノリティの異文化」をマジョリティが「商品」として消費しているのでは、という批判もある。
自分の在り方やアイデンティティ、あるいは「単にそのように生きているという事実」を「商品」として差し出さざるを得ない状況にある人たちがいて、それを消費する側の人間が存在している。そこには「マジョリティ」と「マイノリティ」という力関係や、経済的な依存関係が存在しているという構造。(提供する側は娯楽でやってるわけじゃない。生き残るためだ。)
マイノリティが生存していくための選択肢として機能している以上、いきなりそれを「搾取だ!」と言って取り上げるわけにはいかない。
でも、「だからこれは必要なことなんだ」と言えるほど、都合の良い消費者でもいられない。
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せかいないそんざい (dasein@misskey.kindworld.one)'s status on Thursday, 13-Jul-2023 18:18:12 JSTせかいないそんざい