何もかも同じ考えではないが、たとえばイリイチは「生命」を1個2個と数えるものとした近代を批判した。
数えられるものになった「生命」は所有される財産となった。「生命」は関係性としての本質からそれ単体で成り立っているものと前提される孤立した塊になった。
そこで措定された「生命」概念は単体で成り立つために、「生命」はそれを害するものに対し厚い防壁を築き、あるい害のあるものを除去さえすれば成り立ち、健全になるものになった。
外部の害を遠ざけ、除去さえすれば、残ったものは健全になるかといえば、実際には孤立したものは自分だけで変わることができず歪み、文脈をその人個人の心身だけの問題にすることで人間はモノとして扱われる。
数えられる「生命」、単体で成り立ち、所有される財産としての「a life」に対してイリイチは躍動性「aliveness」 を対置した。
関係性のなかに存在する「生命」とは、「生命」をいわゆる「生存状態」ではなく、躍動性そのものと考えるわけだ。
人は自身の「躍動性」をもって生きていると実感するのではないか、そして「躍動性」の回復を求めているのではないかと考えるわけだ。