ノンバイナリーとフェミニズムの話をここ最近見かけて少し考えてた。
ノンバイナリーのひとがフェミニズム運動や理論を担っていないというのは明白な誤りで、現に運動の現場にも理論家にもノンバイナリーの人は存在してる。し、以前書いたように私は過去のフェミニズムには「ノンバイナリーという言葉がなかった時代にノンバイナリーという概念を生むための枠組みを作ろうとしてる」ものがあった。ジュディス・バトラーだけではなくて、アトキンソンのような70年代ラディカルフェミニストや、あるいはレズビアンフェミニストの中にもそれは探れるはず。
ただそういう話とは別に、ノンバイナリーというカテゴリーのなかでも色んな差異があって、周囲の話だけ聞いてても、AFABノンバイナリーの人が経験する差別や困難とAMABノンバイナリーの人が経験するそれは違うのかなと思う。AFABの人は「女性とみなされミスジェンダリングされて"女性差別"を受ける」ことがある一方で、AMABの人は「男性ジェンダー規範から少しでも逸脱したら罰を受ける」というようなまた異なる困難を経験してることが多いように思う。個々の差異と困難を考える上でもフェミニズムは役立つし、ノンバイナリーの人と対立するものではないはず、と個人的には思ってる。
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