自分としては、ここでいわれているような「神」は固まった自分を成り立たせなくし、解体していくものとしての「他者性」ではと思う。
出来上がって自己完結に固まる自分は古いOSのようなものだ。その固まったものを外からきたものが壊す。
出来上がった自分にとっては他者性は受難そのものであり、好んで受け入れることなどできないが、その一方で自動的に自己完結に閉じていく自分と世界との連動性、応答性が回復されるにあたっては、強固な自己完結性を壊す他者性しか状況を変えるものがいない。
破壊が同時に再生であり、自己疎外からのより深い回復の源であるという現実の二重性を受け入れることがオズワルドの「神との正しいつながり」にあたるのではないかと思う。
これを例えば「多様性」の議論に重ねれば「弱者を受け入れてあげる」という多数派の自我肥大的な、温情主義的「寛容」ではなく、多様性という他者性によって多数派の今までの自分のあり方がもはや成り立たなくなることによって、ようやく自分では変えられなくなっていた自己完結の閉塞と疎外が開かれ、社会環境が健全な方向に更新されるのだという認識と「覚悟」が求められることになる。