もちろん、個別的・個人的であることは自省の機会に比較的恵まれない事でもあるので、抗議において言い過ぎのようなことが起こるチャンスがそうでないときよりも多いことは確かです。でも、その面はどちらと言うと小さいので、差別への抗議に相対するときには「そもそも、我々はこれを根拠が薄いものとして考えるようにプログラムされている」ということを念頭に置いておくのは大事なことなんだろう、と思っています。