#100分de名著 3-3
「血の日曜日」
1991年1月11日早朝
リトアニアの議会庁舎
13人死亡/500-700人負傷
非暴力で抵抗した市民にソ連が発砲
死者も出したがあくまで非暴力を貫いた
ソ連軍の発砲、攻撃の場面を世界中に
議会庁舎内のラジオ局から放送、その後テレビでも放送。
これが功を奏し、
欧米中心にがソ連の行動を非難し出した
欧米諸国ではゴルバチョフはイメージが非常によかったため
テレビ放送がなければ強く非難することは非常に難しかったと言われる
1991年4月
再度の軍事介入を予想し、シャープから新政府は首都で直接助言を受ける
特に有名なもの
「挑発的な行為で武力行使の口実を与えるな」
すでにソ連に非難が集まっている状況
非暴力を貫けば、ソ連は武力行使が難しくなる
1991年8月19日
ソ連国内の保守派がクーデター
クーデターの首謀者が側近だったことから
ゴルバチョフとソ連共産党の権威は失墜
クーデターから半月後の1991年9月、ソ連はバルト三国の独立を承認
Embed Notice
HTML Code
Corresponding Notice
- Embed this notice
yakumi_kienai@fedibird.com's status on Tuesday, 24-Jan-2023 18:24:22 JSTyakumi_kienai