G7の首脳が訪問するということなので、2019年に平和祈念資料館に行った時に書いた文章を転載します。
いくらなんでもやっぱり少なすぎる、と改めて思った。というのは、昨日訪問した広島の平和記念資料館における朝鮮・韓国人被爆者の扱いのことだ。男性一人の紹介しかない。
もちろん、平和記念資料館はすべての被爆者を紹介することを目的とする施設ではない。そこでなされているのは原爆の被害を訴え、伝承し、被害者と遺族の魂を慰めることだ。すべての人、すべてのケースが紹介できないのは自明のことだし、またその必要もない。
とはいえ、全体で約56万人と推定される広島での被爆者のうち約5万人が韓国・朝鮮人、という現実と対比したとき、膨大な数が紹介される日本人被爆者に対して、「外国人の被害」として米国人、ドイツ人と並べて一人だけ、というのは扱いが小さすぎる。ご本人の渡航の経緯や創氏改名の経緯などは書かれているものの、植民地支配や差別についての言及は大変少ない。
また、韓国・朝鮮人被爆者にとっての悲願であった被爆者手帳の問題は別のコーナーにおいやられ、しかも「海外に移住した日本人や外国人の被爆者…」という、問題の焦点が伝わりにくい表現で紹介されている。
そこにあるのが平和資料館の偏向なのか、それとも日本社会に蔓延する「日本人ファースト」主義への怯えや過剰な順応なのかは、僕にわからない。けれども、結果としてそれらのものが、そして平和資料館の今の展示全体が、ある効果をもたらしていることは確かだ。
2019年にリニューアルされた平和資料館の展示の基本的な考え方は、原爆被害の実態のアピールと、記憶による被害者と遺族の救済である。そのために、原爆投下前の広島と原爆投下後の広島の姿が効果的に対比され、また犠牲者や遺族の証言が数多く展示されている。
これらは効果的ではあるのだが、しかし、あえて露悪的にいえば、お涙頂戴のヒロイズムの連続でもある。
たとえば、外出中に被爆したある少年のエピソードとして、帰宅して母親が重症を負っているのを発見し「自分はどうなってもいいからお母さんを助けて」と叫んだという話が紹介される。ある女子高校の女性教員は屋外作業の引率中に被爆し、救護所で「生徒の被害状況を確認できないまま死んでいくことが心残りだ」という遺書を書く。ある医師は自らも被爆しながら負傷者の救助に尽力し「なぜ我々がこんな目に合わなくてはならないのか」と嘆息とともに語る。
そこから伝わるのは、犠牲者の多くが誠実に自分の職能を全うしようとする人々であり、その生涯が理不尽な暴力によって虐げられたという事実だ。だが、その人々が自らが生きる場所であると思い、力を尽くして支えたいと考えていた社会、体制、国家がどんな原理によって立つどんな場所であったかを考えると、僕はその悲劇をただの悲劇としてとらえる気にはなれない。
焼けただれた被爆者の写真を見るとき、僕は1919年に朝鮮の町の教会に押し込められ、日本軍によって生きながら焼かれた3.1独立運動参加者の人びとの体も、やはり焼けただれていたのだ、と考えてしまう。戦後も長く苦しまれた人たちの写真から連想するのは、中国で日本軍の化学兵器の後遺症に苦しんだ人たちの姿だ。
もちろん、それらの犠牲はすべて侵略や戦争という愚行の結果であり、それに「正義か、悪か」という判断基準を持ち込むのは愚かなことだ。原爆の被害を展示する資料館に、日本軍の蛮行はもちろん、日本による植民地支配の歴史の展示を求めることも、おそらくは過大な要求なのだろう。
それでも、僕は思う。犠牲を慰めるというなら、韓国・朝鮮の人々、とりわけ亡くなった人たちのご遺族の思いをほぼ完全に無視してしまうようなこの展示は、その目的を充分に果たしていると言えるのだろうか。そしてまた、この展示が「日本人による、日本人のための、日本人の神話」をナルシシスティックに構築する効果を持つ、ということをどう考えるのか。
記念館の順路の最後付近に、米軍が空撮した8月6日の午後の写真が展示されていた。広島は火災による煙に覆われていて、中心部は見えない。聞くともなく、隣に立っておられたご夫婦の会話が耳に入る。奥さんが言われる。「あの雲の下にどれだけの人がいて、どんな目にあっていたか、この写真を撮った人は考えたのかしら」と。もっともな批判だ。だが、僕は思う。日本の人には、8月5日以前に撮影された広島の空撮写真をこそ見てほしい。または南京市街の写真、または京城の写真、義兵闘争で焼かれた朝鮮の村の写真、木浦の港に積まれた米俵の写真を。そして、考えてほしい。そこにどれだけの人がいて、どんな目にあっていたのかを。