:hyuki: 本を書くということ
はじめての本を出してから今年で30年目、昨年は60冊目の本を出すことができました。感謝します。
30年で60冊という本のリストが、いわば私の個人的な活動の履歴書になると思います。
もちろん、会社勤めをしていた時代も、私にとっては大切な時間でしたけれど、自分が書いた本のリストは、それとはまた意味合いが違う大切なものです。
書いた本のことを考えるときには、いつも「感謝」を忘れないように心がけています。著者名として、本の表紙に名前が出ることから、自分1人で書いたような錯覚にとらわれますけれど、実際には何よりも読者の存在がなければ、本を書き続けることができないからです。
読者に対する感謝を忘れてしまったら、それこそ傲慢極まりない態度になってしまうでしょう。それは充分注意しなくてはいけないことだと思っています。
私の父は、中学校の教師をしていて、私は本を書く仕事をしています。教える仕事と本を書く仕事は、ちょっと考えると違う活動のようですけれど、あるとき、どちらも広い意味では「教える」という点で、同じ仕事であることに気が付きました。それは私を非常に大きな安心へと導いてくれました。私は自分でもそれと気がつかないうちに、父と同じ仕事をしていたことになるのですね。
どんな仕事でもそうかもしれませんけれど、教える仕事と本を書く仕事は、似ているところがたくさんあります。
つい先ほど気がついた共通点があります。それは、自分の仕事の結果が本当のところ、どこまでどのように広がったかは、本人にはなかなかわからないという点です。
社会に出て成功した人が、小学校の先生に「ありがとうございました」とお礼に行くケースは少ないと思います。それは非常に単純化した例ですけれど、また、社会的な成功が成功とは限りませんけれど、教師という仕事が自分の成果を見ることは少ないという一例です。
そして本を書く仕事も、またそれに似ている面があります。子供の頃に読んだ本がきっかけになって何かに興味を持ち始める。そしてそれはやがて、自分の進路を決定するときに重要なインパクトになる。そんなケースは少なくないと思います。
その場合でも、子供の頃に読んだ本の著者に「ありがとうございました」とお礼を伝えるケースは少ないんじゃないかと思います。
たとえば私も、子供の頃にたくさん本を読みましたが、その著者にお礼を言ったことは多分ないんじゃないかと思います。
教師も、本の著者も、お礼を言われることを目的に活動しているわけではありません。私が言いたいのは、自分の活動がどのような実を結ぷかというのは、神様ではない人間にはわからないものだということです。
多くの場合、本を書くのには苦労がつきものです。喜びもたくさんありますけれど、考え込んだり悩んだりする場面は無数にあります。迷うこともあります。調子が悪いときには、自分がやっている活動が、実は何の意味もないのではないかと感じることがあるかもしれません。
そんなときに、私は思います。自分の活動の成果が何であったかを全て知ることはもともとできないのだということ。これは事実です。そこにはある種の信仰が必要になるのでしょう。自分の活動がきっと世界のどこかにいるどこかの時代の人に対して、大きな良い働きをすることができるかもしれない。そのことを願い、信じる信仰のことです。
朝の散歩をしながら、そんなことを考えています。