昔、村上龍の『愛と幻想のファシズム』を読んだ時困惑した。確か、日本のことを、アメリカにレイプされてそのまま厚化粧で女装するようになってしまった男だと評する場面があったのだ。意味するところはわかるし1980年代の作品だから仕方ないが、曖昧な存在を許さない感性とミソジニーに息が詰まった。
今、それを思い出し、改めて思う。
米国という加害者は確かに極東の国をレイプしたが国際社会は前者を裁かなかった。それどころか日本はそれを守護者として崇めることを余儀なくされた。そして他方で日本は他の国をレイプし隷属させていたのであり、それも十分には裁かれていない。
このような暴力の連鎖の中にいて、しかし女装を馬鹿にするようなプライドだけは捨てられない精神が宿る国は、さぞかし弱い者に残酷なままでい続けるだろう。何故なら彼は常に不安だからだ。全ての弱い者、女性的に見える者は彼にとって蹂躙され続ける己の似姿でもある。だが、そのことに気付かぬふりして加害者に同化し、弱い者を嘲ることで自尊心を保とうとするのだ。