新海誠のアニメ映画を眺めると、過剰なほどにセンチメンタルな音楽が最初から最後までほぼ間断なく流れている。あの音楽を消してセリフと絵だけで同じ映画をみたら、おそらくまったく違った映画に見えるだろう。言語の作用が音楽の作用で隠蔽されているのである。
「これは現実ではない」といいたいところであるが、世の中をうろうろしている人を眺めると多くの人間が公共の場で耳にイヤホンを装着して、おそらく音楽を聞き続けており、実態はそのようにして言語によるコミュニケーションは、味の素まみれの食事のような状況になっているのだと思う。
素の言語のコミュニケーションは、味の素の入っていない食事のように、その味わいは味の素になれきった感受性には微細すぎるようになっているのかもしれない。