乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日〈嘉永2年11月11日〉 - 1912年〈大正元年〉9月13日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇を慕い、あとを追って殉死したことで国際的にも著名である。最終階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。人々より「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて深く敬愛され、「乃木神社」や「乃木坂」にも名前を残している。
名前
幼名は無人(なきと)で、その後、源三と改め、頼時とも称した。後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから「源希典」との署名もよく用いた。
号としては、静堂、秀顕、石樵および石林子を用いた。
軍人として高名になった後には、「乃木大将」または「乃木将軍」と呼称される。
出自
宇多源氏支流乃木氏 - 毛利家に仕えた乃木家の本姓は出雲源氏・佐々木氏とされている。乃木家は雲州野木の地頭となった、佐々木高綱の二男である野木光綱の後裔を称している。現在の松江市浜乃木一帯が野木(乃木)氏本貫の地であったとされる。ただし異説もあり。生涯
幼少期
嘉永2年11月11日(1849年12月26日)、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(150石)と壽子(ひさこ、「壽」とする文献もある)との三男として、江戸の長府藩上屋敷(毛利甲斐守邸跡、現・東京都港区浅草)に生まれた。乃木の長兄および次兄は既に夭折していたため世嗣となる。幼名は無人(なきと)。兄たちのように夭逝することなく壮健に成長して欲しいという願いが込められている。
父・希次は江戸詰の藩士であったため、乃木は10歳までの間、長府藩上屋敷において生活した…