→ 「こういう状態」に関する知へのニーズに応えることの重要性と同時に、「こういう状態」を許容してしまったのはどのような「知へのニーズ」がなかったからなのか、より正確に言えば、それがないことにされたり、掘り起こされ損ねたりしてきたからなのか、それを考える必要が、少なくとも特定の世代や特定の領域の専門家には(そして私はその両方に被っているので本当にこれは自戒を込めての話だけれども)あるのではないだろうか。
そう思って、今年は大学院ではずっと80年代のフェミニズム本質主義論争の頃の論文を読んでいる。嫌になるくらい話がその時代で止まったままというかそこからすら逆行して今に至っていて、参加学生から「こういう議論はこの後展開されなかったんですか」と聞かれる。
…ごめん、アカデミックな流行から落ちちゃったんだよ。女性性なるものをどう考えるのか、とか。本質主義とか。身体の物質的地位とか。そういう話が。
ちゃんと続けていくべきだったのに。