自由な人間などいない、鳥でさえ空に繋がれているとボブ・ディランは言ったが、同じことを僕も、中学生の頃には悟っていた。中学校はなだらかな斜面の途中に建っていて、校舎の窓からはそぎ取られたように細い水平線のあたりまで一面の、製紙工場とその煙突に占拠された町が見渡せる。赤と白に塗り分けられた煙突から一年中、二十四時間立ち上る煤煙が降り注ぐ工場地帯を貫くのは新幹線とバイパスの高架で、僕は授業中、そんな景色をぼんやりと眺めながら、自由について考えるというもっとも不自由な思考の迷路を彷徨うのが好きだった。結論として、昨日と明日の間に組み込まれた今日に本当の自由などあり得ない。裏を返せば、昨日と明日から今日を切り離すことができれば自由になれるということだが、それはつまり、死を意味する。人生最後の日だ。だから、当時も今も警戒されているあの大地震を待ち望み、好きな女の子とふたりで生き延びる最後の日を夢見るようになった。彼女と戯れるいやらしい妄想もたくさんした。だが、ご存じのように、その日はまだ訪れない。僕は今も、昨日と明日の間に組み込まれた不自由な今日を生きている。そうこうしている間に随分と長い年月が過ぎ、好きだった女の子の消息はもはや知るべくもないし、知りたくもない。まぁ、それが人生というものなのかもしれないね。