つまりそれは親を客観的に、どこにでもいる、欠点も間違っているところもあるけれど一所懸命生きた、等身大の弱い人間の1人に過ぎないのだと言う風に、見えていない可能性が高いと言うことなのだ。立派な人だとかとても強い人とか正しいとか、すごく優しいとか朗らかとか、すごく愛してくれたとか。そう言う記憶しかない場合、自分と同じように良い面も悪い面もある普通の人間としての親の、片側しか見えてない可能性があるのだ。
それは親世代の価値観を、少し距離をとった視点で批判的に見て、考える能力にも繋がる話なのだ。それは、もしかすると今のこの、“親孝行“を是とする家族主義がいつまでもこの国に世代を超えて蔓延っている状況の遠因にもなっているんじゃないか。「昭和かよ」と言うやつ。それどころか親が現実以上に立派に見えちゃうと“非現実的に“時代を遡っちゃうのも…。それ何時代?みたいな妄想。江戸時代だってそんなことなかったよ?的な。
親のことも自分のことも、少し離れた目で批判的に眺めてみる、…その考えるための“間“が、今の日本人には、圧倒的に足りない気がするんだよなぁ。別に杉田水脈みたいな極端な例ほどではないにしても。