虎落笛というのだったか。それは風の音ではなくて、ただ電線が震えているだけなのに、どうしてこうまでもの哀しいのだろう。暗く重い曇天のせいかもしれなかった。北風が島の南岸の海面を金属の表面のように圧し伸ばして、犬を連れた節子さんのウインドブレーカーが騒々しい。灯台にはもう誰も駐在していないが、彼女は今も、毎日朝と夕方の決まった時間に岬に通い続けている。最後の灯台守が恋人だったからだ。水銀の滴のように禍々しいこの島から連れ出してくれるはずの人がいなくなってしまって飼い始めた保護犬も、すでに3代目。夫はなにも知らない。知らぬまま、三年前に漁に出たまま戻らなかった。子供たちも皆、都会でそれぞれの家庭を築いて滅多に帰ってはこない。だからもし、この子が亡くなったら、もう次の犬は飼えないだろうと彼女は考えている。冬の朝は遅く、日の出の時刻はとうに過ぎているはずだがまだ光は届かない。そんな時、ふいに誰かに呼ばれたような気がして顔をあげると、誰もいないはずの灯台の明かりが青黒い雲の下でゆっくりと回り続けている。気のせいかもしれなかったし、そうではないかもしれなかった。節子さんの足下で、小さな命の茶色い毛が風に震えている。虎落笛というのだったか。それがこうまでもの哀しいのはきっと、風のなかで誰かが誰かを呼んでいるからだ。