弱者男性は実在する、それを信じる。事実として信じる。そこからしか、何もはじまらない。そうわかった。もちろん統計的には、男女の構造的な非対称がある。それを認める。男性の方が差別の被害者だという事実はない。それでも弱者男性たちは実在する。たとえ法律や言葉の定義の上でのマイノリティに入らなくても。精神や肉体の障害、病、発達、コミュ障、被虐待経験、家庭の事情、学歴、外見、身長…。その曖昧なグレーゾーン。いや、統計や定義では言えない。どんなに統計や定義で議論を重ねても、弱者男性は実在するわけがない、という結論になるだけだろう。しかし弱者男性は実在する。残りものとして。残余のように。憎悪やアンチの闇に墜ちる人が多いから、いっそ弱者男性ではなく非正規男性と言えばどうか、と書いた時に、ある人が言った言葉が忘れられない。俺たちから「弱さ」すら奪うのか。その言葉が突き刺さって抜けない。事実への信。それは矛盾した言葉ではある。だがそこからはじめるしかない。たとえ間違っていても、彼らから憎悪されても、彼らの隣に、共にあることを選ぶしかない。