昨晩「つまんない言い方だけど、差別的あるいは排外主義的な言動を一つしただけで全否定、存在丸ごと批判、どこまでも追い詰める、という慣習=エートスがあまりにも拡がってしまったのを懸念する。完全に闇落ちした人間と、話せば歩み寄ってそれなりに分かり合える人間との違いが大事、左右問わず。本当に。」ってやつの事をずっと思ってた。
杉田俊介の2025年6月9日21:43のTwitterでの発言。
何かをやった時に、いや、差別的或いは排外主義的言動だけの話で構わないが、その人間が過ちを認めその上で軌道修正というか真っ当になるよう再スタートする事は必要だが、過ちを認めさせるには批判は必要で、世の中それが十分ではないという思いはわたしには間違いなくある。
日本において、「全否定、存在丸ごと批判どこまでも追い詰め」られた者がそんないるのかというのはある。のうのうとしているのが大半ではないか。
「完全に闇落ちした人間と、話せば歩み寄ってそれなりに分かり合える人間の違いが大事。」というが、その判断をいつどこでどのように行うのか。そこには一定の批判が必要だろう。批判に対する反応によって判断するのではないだろうか。そしてのうのうとしているのが大半なのだからその批判は弱いし足りないのだろう。
更にはその「差別的あるいは排外主義的な言動」の対象になる者は、「差別的あるいは排外主義的な言動を一つ」されれば「全否定、存在丸ごと批判、どこまでも追い詰め」られて行く事になる。その謂れなき攻撃にさらされている者に手当をするのが先決ではないのか。
まず誰を見るべきか。
いじめっ子がいじめられっ子を攻撃しているのを見て、いじめっ子が批判され過ぎるのを危惧するのか。いじめられっ子はその間どうなっているのか。
あなたは誰とともにいるつもりか。
こういう杉田の言葉は、実に「つまんない言い方」だと思う。
「左右問わず。本当に。」