クッソ真面目な人がクッソ真面目に「差別に反対」すること。それ自体は義務論的には正当な行為でしかないと思うのだが、そこで行われていることを文化人類学的に機能としてみてみると、そうした正義を媒介にコミュニケーションを行い「正義を交換」しているだけにも見えるし、そうした「差別と正義」のディスクールが生産されつづけている構造とその強化にも見えてくる。