Muskが「言論の自由が制限されている」と言ったのは英語圏の話で、日本語はほぼ無規制だった。日本語では、差別主義者も排外主義者も、社会を壊す言動の主導者も、ほぼ排除されなかった。表面上の「言いかた」だけには異常に神経質だったけど。
僕は何度か嫌な思いをしたあと、他の人ができるだけそんな苦しみに合わないよう、差別主義者を見つけ次第Twitter社への報告を続けていた。数千はした。がほとんど無視された。疲れて逃げ、ここ数年はたまに覗くだけになった。
日本語のTwitterは広告代理店のようで「話題になればなんでもいい、そして、金をくれれば話題にしてさしあげますよ」という営業方針だったように推察する。対立を煽り、火種を投げ込むのが重要だと考えていたと思う。そしてこの態度はこの十数年の日本の複合的な脆化の責任の一端だと考えている。
日本語の人たちが「いま」Twitterから抜け出している理由は実はよくわかっていない。歓迎はするけど「Muskの前のほうが日本語Twitterは悪の巣窟でしたよ、そこにいてまんまと広告収入に貢献した責任はあるよ」ということは忘れないでね。