しかし、そうは言ってもあれば大事だったのだと思う。そもそも、ハーバートがあれだけ手の込んだ歴史設定を作り込んでコンピューターを排除しなくてはいけなかったのはなぜか。
もちろん、そこにモダニズム型の決定論への反旗を見ることはできる。コンピューター、ないし、全能の存在の可能性を退けようというのは50年代くらいからあったように思う。僕がすぐ挙げられるのはコードウェイナー・スミスの『ノーストリリア』だが、あそこの世界でも無限の予知能力を持つコンピューターの使用は違法だった。
だが、ハーバートが構築した世界にとって、コンピューターの排除は単に全能の存在を登場させないという以上の意味をもつ。なぜなら、彼は作中でその能力を人間に与えるからだ。大幅に拡張された論理的思考能力と心身の制御能力を持つ主人公たちは、たとえば、人の行動や思考を正確に予測することができる(「それはテレパシーではない」)。そして、その能力をさらに敷衍することで、個人や集団の存在からその祖先の経験を読み取ることもできる(それは、もしかしたら量子力学的というよりはニュートン力学的なアプローチなのかもしれない)。
そこでハーバートが獲得を夢想しているのは、人類が直接知覚できない存在へのアクセスだ。たとえば、宇宙を時間をその一つの次元とする多次元体として考えるなら、高次元を自由に移動できる知性は我々には時間として知覚される次元に沿って移動することで、我々が過去として知っている何ものかにアプローチすることができる。もしかすると、コンピューターもそれができるのかもしれない。だが、その情報は人間に認知可能な形にはならない。
しかし、デューンの主人公たちはにはそれができる。彼らは何十世代も前に生きていた女性の苦悩の叫びを耳にすることができる。そしてもちろん、未来も、未来の場合は特にありうべき可能性も含めて幻視することができる。
こうした、人類の知性と感覚の限界へのいら立ちとその克服という夢を、僕はデューンシリーズに見たいように思う。『砂漠の救世主』に登場するクローンも、もしかしたらそのようなものではないのか。記憶を含めて完璧に再現されたクローンを、我々はオリジナルと見分けることはできない。なぜなら、人は「情報」にしかアプローチすることができないからだ。だが、そこには違いが想定されうる。それを知覚するという話があれではないのか…と思いつきつつ、この冬は『砂漠の救世主』を読もう。