テイラーも「アウグスティヌスがただ神のうちにのみ見出した統一と全体性の源泉は、いまや自己の内面に発見される」とカントに関して言っていますが、ここの展開を弁神論の終焉という形で語っている哲学史家が本邦には誠にいらっしゃらなくて。そうすると、どうしてハイデガーも『杣道』という本を書いたのかも結局わからないのですよね。キリストという「道」が失われて、もう「野の道」しか残っていないということで、その「弁神論のその後」を論じているのが『杣道』です。だから、神学に代わる「芸術作品」、神の死、ヘーゲルにおける経験、そういったものが扱われている。