あまり調子がよくない一日だったが、プレシアドの二冊の邦訳書を時間をかけて読み返していた。すごいのだが、やっぱりどこかノリきれないところがある。なぜだろう。それはハラウェイやドゥルーズへのノリきれなさにも通ずるのかもしれない。たとえばプレシアドの「モンスター」とショーン・フェイの「プレデター」の違い。あるいはプレシアドのカウンターセックス論とカリフィアのラディカルセックス論(そしてそのトランス性)との違い。その辺りを時間をかけて言語化したいが。しかし明日は思うところあり、マラブーの翻訳をまとめて読み直そうと思う。なぜ自分にとってマラブーがこんなに大事な哲学者なのか、本当にそれでよいのか、考えておく必要がある。