昨夜はうっかりさかなのギタリスト西脇一弘のブログと、それに異議をとなえた高橋健太郎の注釈を読んで、少しヘヴィーな気分になった。
20世紀の終盤に私も似たような経験をした。あの頃の雰囲気がにわかによみがえってきて、息苦しいのに目が離せなかった。
真相は藪の中であるにしても、私は両者の言い分が痛いほどわかる。アーティストは自分の創作に夢中で、その環境を誰が用意したのか無頓着になりがちだ。プロデューサーは予算や納期や調整に腐心するがあまり、ついついキツい言葉を投げかけがちだ。互いに配慮していても創作の現場に衝突はつきものだ。いや、まともに衝突しなかったがために、後になって怨念が募ったり、今さら思い出したくなかったりするのだろう。
私の場合、依頼者の思惑に沿った楽曲を提供できなかった。私としては制作の過程でずいぶん譲歩し、そのあげく「使えない」となったから恨み骨髄だった。向こうとしても先行投資を回収できずに憤懣やる方なしだった(らしい)。
当時の音源が世に出ることはないが、今の耳でデモ盤のコピーを聞くと、彼らの判断は間違っていなかった。私の作品はあまりにも独りよがりで普遍性に欠けていたのだ。
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岩下 啓亮 (iwashi_dokuhaku@mstdn.jp)'s status on Wednesday, 30-Nov-2022 06:37:56 JST 岩下 啓亮 -
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岩下 啓亮 (iwashi_dokuhaku@mstdn.jp)'s status on Wednesday, 30-Nov-2022 06:41:29 JST 岩下 啓亮 似たような展開は、世紀を跨いでもう一度訪れる。おおげさにいうなら、それがMy Destiny。
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