自己批判の契機があったとしても西洋思想が未だに不動の地位を占めているということは忘れないでおきたいかな。Korea Verbandの所長さんによると、ドイツにはドイツ人であることを嫌悪する人がいる、ということだったが、それでも依然として移民排斥や異民族蔑視は続いているのであって、それらは恐らくはむしろ相補的。意地悪い見方をすると、その「自己批判」が西洋優位を担保しているとも言える。脱構築も内部の内部は外部であるという形で東西という対立自体を脱臼させるが、更にその外部から眺めると結局はフランス思想の優位の補填にしかなっていない。早い話、デリダを読んでも例えばヴェトナムの文学を知ろうという導線はなくて、一例としてはポンジュを読もうとしかならない。神話が改変可能性を内在させているがゆえに生きながらえているのと同じ事態に見える。つまりそこでは未だ神話が猛威を振るっている。嫌味な言い方をすると、だからこそ余計にタチが悪い。