3月20日に東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区北砂1)で開かれた「東京空襲犠牲者の名前を読み上げ、心に刻む集い」の記事。
どうにも違和感を拭えない記事。
「学生たちに少しでも平和や戦争について考えてほしい」「10万人一人一人に人生があり、その子どもにも人生があった。その人生が消えてしまったと考えると、胸が痛いです」『 私が育った地も、米軍による無差別爆撃を受けた。その犠牲者の読み上げをさせてもらった。72人の名前を、間違えないように緊張して読んだ。「幸」や「愛」などの字がある。「親が愛情を込め、期待を託してつけた名前なのだろう」。そう思うと、こみあげてくるものがあった。』
『「無名の兵士」はいないし、「無名の民間人空襲戦没者」もいない。人間の尊厳のために、死者は一人一人その名前を呼ばれ、記憶されて、懇ろに悼まれるべきなのだ。』
『しかし、戦争は「国家事業」だった。市民の善意だけに任せていてはいけない。』
などとある。
民間人空襲被害者への補償をすべきという話や被害者のなかには旧植民地の人間、朝鮮半島出身者がいた事も書かれている。
確かに市民の被害であるのだから悼まれる必要も補償される必要も記憶される必要も記録される必要もあるだろう。
そこは間違いない。
だが、『人間の尊厳のために、死者は一人一人その名前を呼ばれ、記憶されて、懇ろに悼まれるべきなのだ。』と言うのであれば、『戦争は「国家事業」だった。市民の善意だけに任せていてはいけない。』と言うのであれば、あれはやらかした戦争であって、向こうでは途轍もない数の名前を呼ばれない、記憶されない、悼まれることのない死者を作り出したのだから、その視点は必ず必要なのではないだろうか。
こういう記事が多いから先日投稿のあった「被害者コスプレ」とか言われるのだろう。
そんな感じの事は思った。
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「無名の戦没者」なんていない 一人一人にあった名前と家族と未来 | 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20250405/k00/00m/040/224000c