韓国語にしろ手話にしろ、第一言語とは違う言語を学ぶ中で、それまで解説の必要もない"自然物"だった日本語を客観的に捉えられるようになり、結果的に学習言語も日本語もより深く理解できるということが私は何度もあった。
これがあるかないか、つまり母語を客観的に捉えられるかどうかは習得度合いを左右する大きな要素の一つだと思う。
先日、手話の学習会で「旅先で食べたうどんがとても美味しく、うどんに目覚めた。」とスピーチする学習者(聴者)がいた。
「うどん」「目覚める」の表現に、ろう講師はポカーン。「うどんに目覚める」という慣用表現が伝わらなかったのだ。少なくともそのろう者にとって、「目覚める」は眠りから覚める以外の意味を持たない。
うどんを食べて目が覚める?激辛?激熱?どういうこと?と困惑しつつ、何か別の単語と「目覚める」を間違って覚えているのかもと、ろう講師が学習者に「目覚める なに?」と訪ねる。
学習者「(手話)目覚める (指文字)メザメル」
ろう者「??? うどん 目覚める??」
学習者「うん。うどん 目覚める。」
こうしたすれ違いが生じたときに、まずは伝わっていないことに気づけるかどうか、そして伝わらない理由にピンと来るかがとても大きいと感じる。→つづく