こうした、「30年経っても古くならない」どころか、「50年後に再発見されるのを楽しみに出来る」のが、哲学・思想関係の醍醐味である。
ところで、日高六郎さんが亡くなった時、『世界』で追悼文を書いたのが私と見田さんだったのは、やはり時代に対する見方が接近してきたのだろう。
実際、私が院生だった1990年代半ばには、見田さんは曖昧模糊としたポストモダニズム、特にフーコー(実はマクルーハン)をだしにした「主体」批判に、かなり「うんざり」しており、そのことは直接かなり聞いた。
実際、見田さんの弟子でもあった吉見俊哉氏も情報学環でメディア論、そして東浩紀以降の駒場「ポストモダニズム」も、実はフランス思想と何の関係もない、マクルーハンを何重にも劣化させた「貧弱な」メディア論であり、共にZEN大学の太鼓持ちをしていることは象徴的である。
ちなみに「子宮回帰」願望を根源に秘めている所は、マクルーハンと東をはじめとするポストモダニズム@JAPANに共通している。ただし、マクルーハンの主張は「全てが詐欺」という訳ではない。
それにしても吉見俊哉氏の「転落ぶり」は目を見張るばかりである。これもいつもスポットライトを浴びていないと落ち着かない首都圏インテリ(筑駒-東大)の「ひ弱さ」の末路なのだろう。