反差別を掲げている人の中にたまに見受けられるけれども、「相手の差別を指摘できたほうが勝ち」みたいな点取りゲームだと思っている人がいる。それは単に論破すればいいという考えと変わらず、差別の指摘が点数稼ぎになってしまう。平等のために社会構造を変えるという目的から外れてしまっており、そういう言論のノリには私も賛同できない。差別を指摘しても相手より優位に立てるわけではない。差別の指摘もまた責任がともなうし、場合によっては合意や検証だって必要になる。SNSはそういうことを忘れさせる怖さがあるけど、本来はそういうプロセスなのだということを常々覚えておきたい。
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CINEMANDRAKE(シネマンドレイク) (cinemandrake@mastodon.social)'s status on Thursday, 29-Aug-2024 19:52:42 JST CINEMANDRAKE(シネマンドレイク) - Erscheinung48 repeated this.
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CINEMANDRAKE(シネマンドレイク) (cinemandrake@mastodon.social)'s status on Monday, 02-Sep-2024 11:43:47 JST CINEMANDRAKE(シネマンドレイク) ここでいう「合意や検証」というのは、SNSや個人ブログで行われるものではありません。例えば、「宗教右派」のような問題なら、それは学術用語なので、学問の俎上で専門家によって論じられ、何かしらの整理や合意がなされるものです。私のような素人の一般人には力はありませんし、私のことをどう議論相手の対象とみなそうと試みても「議論」にはなっていません(個人的に私のことが嫌いな人なら別なのでしょうけども)。私はそこまで自惚れていないつもりなので、ド素人の自分が議論できるスキルがある(その立場である)とは思っていません。せいぜい資料を少しずつ収集する程度です。もし本気で議論したい人は私のような素人を相手にするのではなく、ぜひSNSのようなネット空間から離れ、学問の世界に飛び込んでください。宗教右派に限らず日本では国内研究者が不足しており、学術的議論が乏しいですから、そういう挑戦心は歓迎されるでしょう。私もそういう研究整理が充実してくれると助かります。