SNS等で活動を公表していなくても、動いている人たちはいるし、自分にできることをやっている人たちは思ったよりたくさんいます。私も活動の全てを書いたり載せたりはしていません。
「沈黙は加担」という言葉は、弾圧あるいは排斥される当事者がそう声を上げることは当然でありつつも、支援者/アライ/非当事者までもがそれに乗っかるのは社会のエイズリズムを加速させる面もあります。また、マイノリティ当事者の声をマジョリティが自分事に引き寄せすぎることで「怒りの乗っ取り」が起こり、運動がマジョリティにとって都合のいいものとして利用されてしまう(マジョリティ側の他の狙いと抱き合わせにされてしまう)ことも、間近で見てきました。
皆それぞれの場で、できることをやるしかないです。できることを探そうにも、何かをやろうにも、それさえタイミングやチャンスという運の要素があるのも事実です。できない人を責める社会にしてはいけないですし、できる人を担ぎ上げる社会にしてもいけないです。
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Ubu (ubuhanabusa@fedibird.com)'s status on Saturday, 22-Jun-2024 21:15:26 JST Ubu - るまたん and Padda repeated this.
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Ubu (ubuhanabusa@fedibird.com)'s status on Saturday, 22-Jun-2024 21:15:26 JST Ubu 私は現在、人権運動において一人のマイノリティ当事者を「アイコン」(あるいは「人柱」)にすることに批判的な立場を取っています。
矢面に立つ決断をされた方の覚悟は心から尊敬します。しかし、運動というものは上記のように一人でやれるものではないと思い知った今、矢面に立つ人がいるということは、その人を矢面に立たせる方向に進めた誰かあるいは周囲の人々がいることも知りました。
矢面に引っ張り出された当事者は、その後も差別構造が盤石なこの社会を生きていくのです。少し考えればわかるように、それは困難極まります。一個人のマイノリティ当事者を攻撃の矢面に立たせる(引っ張り出す)なんて状況は、本来起きてはいけないことです。
私の(私たちの)活動は誰も矢面に立たない方向性を選択しました。そのため、SNS/インターネットではほとんど何も公表していません。私がロビー活動をしていると明かすことも今後ないかもしれません。そのため、私含めメンバーはSNS/インターネット上では「なにもしていない」と見做れるのだろうなと思います。しかし、皆それぞれ、できることを可能な限りやっています。
冒頭に戻りますが、「沈黙は加担」という言葉を向ける先を誤らないでください。他者(市民)に向けるためのものではなく、権力と己に繰り返し問うためのものです。るまたん repeated this. -
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Ubu (ubuhanabusa@fedibird.com)'s status on Saturday, 22-Jun-2024 21:15:26 JST Ubu そもそもマイノリティは、社会運動をしていると明かすことにマジョリティよりもはるかに大きなリスクを伴います。私たちが行っている「永住許可取消し法案反対」の運動も、まさにそうした大き過ぎるリスクと隣り合わせです。 入管が今なお根拠として使用する「マクリーン判決」は、永住者が反戦デモに参加した(政治活動をした)という理由で永住許可を取り消され帰国を命じられたものです。この判例/事例から明らかなように、永住者は日本でデモに参加するなどの一般的な政治活動をすることさえ、そしてそれを公表することさえ、生存権/居住権を奪われることに繋がるのです。 人権運動/政治活動をできない人、行っていると明かせない人、こうした非常に弱い立場の人々の存在を無視した言説に、私は倫理があるとは思いません。私は複数のマイノリティ属性を持つ者であり、ある面ではマイノリティ当事者でもありますが、運良く活動ができて、それを(ある程度)明かせる立場です。だからこそ、人権運動の中で「沈黙は加担」という言葉がひどく雑に使用され、「だれが怠け者なのか」を探して責めるような風向きがあることを憂いています。