ポエムはさておきだ。
相手が無垢な子供であれ、すれっからしの差別者であれ、「コロンブスが植民地主義の手先となってひどいことをした」という知識を教育によって与えた場合、つぶらな瞳で「ナチスの何が悪いの」とか言いたがるマセガキは「それは必要な犠牲だったんじゃない?」と言うかも知れないし、歴史修正主義者は「コロンブスはいいこともした。マイナス面を強調するのはパヨクの陰謀だ」と言うだろう。過去の「ファクト」をいくらかき集めても、それら自体は自律的な意思を持たず、思想のパレットにはなっても思想を生み出すことはない。
冷笑主義者たちに問うべきは、歴史をどう見るかではなく、現在をどう見、未来に何を望んでいるかだ。恐らく彼らは何も答えられまい。「コロンブス」のMVがそうであったように。
現在をどう見、未来に何を賭けるか、ということにおいて、教育は「ないよりはあった方がいい」という程度のものだ。百姓一揆に学歴は必要だったか?東大卒の官僚はマシな人間なのか?
私は未来に何を賭けるか、未来は自分に何を要求しているのか、という差し迫った問題に答える態度のひとつを仮に「愛」と名付けている。歴史は愛に従属する。