対話活動をしていると、「話してわかりあう」という世界をめざしているのかと思われがちなのですが、どれだけ話しても、基礎的な生存条件が折り合わなければ、話してもわかるなんてことは不可能、と断言してもいいと思います。
対話するのは、第一には、自分がどれほど生存条件の異なる他者のことをわかっていないかを自覚するためで、第二には、異なる他者のなかで自分がどう付置されているかを理解するためで、最終的には、どこをどうやれば折り合えるのか、自分はどこが折り合えて、どこが折り合えないのか、わかりあえない者どうしが探るため、ではないかと思います。