宗教の教義は、聖典を読み解いて積み上げていくもので、そう簡単に出来上がるものではない。もしその宗教も教義が簡単に定まってしまうようなものだったら、「私は神を作っています」と言っていることになってしまう。それは神を畏れ、神の言葉に従うという態度とは矛盾している。
だからこそいまになって教皇が同性パートナーの祝福を容認することを明文化したのだろう。
私たちは何度も神の言葉を聞き間違います、お赦しください(「お許しください」ではない)、どうか神の言葉を教えてください、と言い続けているのがキリスト教という宗教で、特にカトリックは、2000年間、教義を「追求」している、と僕は理解している。
それともうひとつ、キリスト教では自然や人間社会もまた神の啓示なので、無視していい存在ではない。人間社会に迎合しているように見えるのも迎合ではなくて、そこに神の啓示を見ようとして自分の考えを改めていくという過程だ。