リプとして書いたものですが、シェアしたいので投稿しておきます:
私はそれこそコミュニティカレッジで強烈な人種の壁の洗礼を受けました。学生センターで働いてたのでダウンタウンの移民の吹き溜まりのキャンパスと白人が多く通う住宅地のキャンパスを行ったり来たりしましたが、講義の合間にバイトしてたダウンタウンのキャンパスではサユリは言いづらいからとボスからサラと呼ばれ、住宅地のキャンパスでは排日運動のプロテストを目の当たりにして絶対自分が日本人ってバレませんようにと祈り(その後バレて車放火されましたが)、簡単に私達は言いづらいから違う名前で呼ばれたり怒りをぶつけられる対象になるのだと実感しました。
それと同じだけ、嫌だと言えば話を聞いてくれ気持ちに寄り添ってくれたり一緒に怒ってくれる人も居たり、とても不思議な国だと最初の数年は思ってましたし今も思います。
白人の人達にはこういう感覚は分からないのではないかなと思います。差別される側になった事が無いから、自分の意識や感覚の中に存在しないものを正確に想像することは難しいと思います。なので知識に加えて我が身に置きかえることの出来る想像力がとても大切になってくるのですが。共有出来ても共感出来ないこの差の部分がとても大き過ぎると何度も痛感したことはあります。
だから個人レベルではひたすら対話を通して共有を続けています。
個人でこれだけ行き詰まりますから国家間での共有となると気が遠くなります。歩み寄るよりも拒絶する方が簡単だし、そうすることによって利益が生まれたり民をmanipulate出来たら尚更です。
(注: 学生だったのは日米貿易摩擦の頃です)