弁護士(45)は7月19日のツイートで「我々はロゴスとパトスの狭間に常にあり、人間が動物ではなく、人間であるために恒に問われ続ける。」と述べていたのだが、長いことこの表現が頭の中で引っかかっていた。ロゴスとパトスと言えば、その統一によって形を作ること、そして長年に渡るそのような人間の営みが歴史であると考えた、三木清の『構想力の論理』が頭に思い浮かぶ。
三木清の構想力という発想の原点の一つに、ヘーゲルのディアレクティックへの批判が挙げられるが、ヘーゲルにおける動物と人間のとらえかたは、前者が自然に触発された衝動に左右される、低次の欲求能力に振り回された不自由な存在として描かれ、後者は反省により社会的存在として責任ある行動をとり高次の欲求能力を実現しうる、自由な意思を持った存在として描かれる。
反省によって人間が動物から区別される存在となるというヘーゲルが批判された事情には、三木清が『構想力の論理』を執筆したのがちょうど戦間期、すなわち第一次世界大戦による悲劇を経験し、殊に日本においては開戦、そして敗戦へのカウントダウンが刻まれていた時期であることも影響しているだろう。国家ないし世界の危機とそれに伴う社会の不安を前にしては、ロゴスはあまりも無力であるし、かといってパトスに身を委ねることはまさに死に至る病である。続く第二次世界大戦では、ホロコーストや原爆のみならず、様々な意味や方法において人間なるものが軽視され、惨殺されたわけであるが、人間とその意味を復活させるためには、ロゴスのみでもパトスのみでも不十分であると考えるのは必然の流れであろう。
弁護士(45)が「時代は混沌としている。(中略)こんな世の中に何を人は見つけるのだろうか。」というのは現代社会における人間の軽視への抵抗なのであろうが、それを可能にするものがあるとすれば、『構想力の論理』のその先にあるものであろう。ロゴスとパトス、人間と動物を対立的にとらえる、弁護士(45)の言い方をそのまま借りれば前近代的な思考でもって、どうにかなる問題ではない。
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