反省という行為には二重の苦しみが課せられることになる。反省そのものが悩みや苦しみと関係しているわけだが、そういったものを個人的な情念、すなわちエゴに過ぎないものとして切り捨て、公的な目的へと奉仕ないし服従することで社会への責任を果たすというのならば、現実の苦痛のみならずその原因まで自らが責任をもって引き受けなければならないからである。
言葉にすれば当たり前で、二重の苦痛など大げさに聞こえるかもしれないが、現実の人間がどこまできちんとした反省ができているかを考えてみるといい。言い訳ばかりで自らの責任を他者に転嫁してばかりの大人がどれだけ目につくことか。ところで、子供は道徳の授業で反省について教えられるが、子供は自らの行為への責任に限界がある以上、真に反省することは難しい。反省することができるということは、それ自体がひとつの人格の完成として、人間の大きな成長であるわけで、さもそれが当たり前だと考えることが間違いだろう。
ネットでは自らの行為への責任にあまりにも無頓着な大人がインフルエンサーぶっている姿が散見されるが……。その幼稚さを誰かおかしいと思わないものか?反知性主義?いや、これは集団的な幼児退行である。
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音芸路線 (hasekaramani@misskey.kindworld.one)'s status on Thursday, 27-Jul-2023 20:46:25 JST 音芸路線