きょうの東京新聞の記事、「女性/男性として生まれた」という言葉遣い自体はある種の決定論っぽくて不正確に思うけれど、読んだところ明言はされていないけどシス女性っぽい、あるいは少なくともトランスやノンバイナリーだと語られてはいないひとを指して「女性として生まれた」という、あとの箇所でトランスの男の子に使われているのと同じ言葉を使っているのは、ちょっといいなと思いました。
性自認や性同一性、ジェンダーアイデンティティにせよ、あるいは「割り当てられた」や「として生まれた」にせよ、普段から使わない言葉でいる限り、それで語られたひとが「普通でない」ということが含意されそうで(これは、グライスでいうところの「様態の推意」とか、レヴィンソンで言うところのM推意とかに関わる話だけれど)、たとえそれらの言葉でトランスに関して正確度の高い語りができたとしても、「普通」とされるひとを同じ言葉で語らない限り本当に重要な変化は成し遂げられていないと思うんですよね。