Conversation
Notices
-
Embed this notice
>識者がうんちく垂れる時間だ
お~!蘊蓄垂れ流してやろうか?(笑)
日本法だと契約に書面を作るとかの一定の形式は踏まなきゃいけない……なんてことはないから,(契約自由の原則の中の方式の自由)特別の法律で契約書の作成を義務付けているものでない限りは契約書の作成は不要。
……ただね~。「約束した」「そんな約束はしていない」と言って裁判になるでしょ?そうしたら約束したと主張する方が約束したことを証明しなきゃいけない。で,その証明どうするの?「あたしの言うことを信じてくれ」しかなかったら,相手だって同じように自分の言うことを信じてくれになっちゃうだろうし,その時の裁判の行方は神のみぞ知るセカイになっちゃうよね。一方きちんとした契約書を作っておけば「契約書にその人の普段使っている印鑑による印影があれば,その人が押していると推定する」「その人が押した印影があれば(もしくはその人の署名があれば),その人の意思が書面に表現されていると推定する」ということで,違うのなら違う側が証明しろとして証明が容易になっているのさ。だから契約書があった方が「証明がしやすい=裁判で勝ちやすい」とは言えるのよ。
で,このこと自体は大陸法vs英米法の対立というより,市民革命以後の「身分から契約へ」の流れの中で発生したものだから,英米法で否定されているって関係ではないのよ。ただ英米法の中心であるcommon lawはいろんなものを飲み込む性格があるから,例えば「約因(いうなれば対価関係?)がないとある種の契約は無効」「ある種の契約は契約書その他の儀式が必要」という従前のcommon lawの中に契約自由の原則が取り込まれて修正される(まるでEquityのように)って関係にあるのね。そして約因の考え方とかある種の契約に契約書が必要という考え方自体は,日本法でも契約の存否が争われた時に「原告or被告の主張は不自然で採用できない」って判断につながりやすいという形で日本法にも影響しているのさ。
以上,蘊蓄垂れ流しでした。