:hyuki: 関心の裾野を広げる話
関心の裾野を広げる話。
ある分野が盛り上がるか衰退していくかの鍵になるのは、広いユーザ層がいるかどうかじゃないかと思います。
そこからちょっと連想したんですけれど、1人の人間(たとえば自分)を考えた場合でも、裾野を広げるというのは大事じゃないかなと思いました。
たった1つのことに取り組んで、それを極めるというのはかっこよくて憧れますけど、そういうのじゃなくて、いろんなことを試しにやってみるというのは大事なことなんじゃないかと思います。
いろんなことをちょこっとやっているわけですから、その一つ一つはそれほど品質が高いものじゃないでしょうし、規模も小さいものになると思います。それでも自分で活動を継続していると、それなりの経験や蓄積が出てきて、自分でも「なかなかこれは面白いぞ」と感じることがあるものです。
プログラムを書いたり、ウェブサイトを作ったり、3Dモデリングをしたり、音楽をやったり、AIで画像生成したり、文章を書いたり、古典文学を現代語に翻訳したり、などなど。現在の私の本業は本を書くことですけれど、それ以外に細かい活動をあれこれとやっています。それは意外と自分にとって大事なんだろうなと改めて思っているところです。
何か成果物を残す活動していると、つい、「これでお金は取れないな」や「自分がこんなことをちょこっとやってもたいしたことないな」と考えがちなんですけれど、その考え自体はあまり良くないと思っています。
自分の活動の成果物を自分なりに評価することは大事だと思います。ただし、その評価というのは、なんというか、自分なりの評価でいいんじゃないかと思うんです。特に、本業以外の活動においてはそうです。
その細かい活動というのは、いわば裾野を広げる作業であって、それ自体で勝負をかけているわけじゃないからです。裾野を広げると言っても良いですし、種まきをしているといってもいいですね。種をまいている段階で、「この種子では良い果物ができないな」と判断するのは早すぎるでしょう。
それから、一つ一つの活動の成果物からは見えてこないものであったとしても、自分のたくさんの細かい活動を俯瞰して見たときに、思いがけない発見をしたりすることがあります。
つまり、この世に存在する無数の活動の中で、自分が「これをやってみたら面白いかもしれない」と感じるものというのは、何らかの意味で、自分自身の好みや性格やそういうものを反映していると言えるからです。
それはときには「自分のいつものパターン」と揶揄したくなるときもありますけれど、「なるほど。私はやはりこういうことが好きなんだな」というのは、どこかほっとするものがあります。それは、変な言い方かもしれませんが、自分の存在というものを再確認しているように感じるからです。
それから、様々な方面で細かい活動をしていると、その成果物や経験が組み合わされて、新しいものにつながっていく場合もあります。
たとえば、midjourney で生成した画像と、自分の文章を組み合わせたり、音楽と組み合わせたり、そういうことです。
関心の裾野を広げる。様々な種類の活動を行う。継続することで経験を積む。自分なりの評価を行うことで、多くの活動を通して、自分自身を知る。複数の成果物を組み合わせて、新しいものを作る。
よく晴れた朝、森の中を散歩しながらそんなことを考えていました。