訪日観光客が感動することのひとつに「電車が定刻に来る」というものがあって、確かに秒単位の正確さでこの国の鉄道は運行されているわけだが、こういうことを賞賛されるとそうではない国や国民のことをどこかで見下してしまう。実際に僕自身、例えば初めてのインドでもはや永遠に来ないのではないかというくらいに汽車を待ち続けたことを笑い話にした経験もある。けれども本当は、たかだか数分、数時間の誤差に拘る方がどうかしていて、人間が生きる時間の流れはそのようには出来てはおらず、最も流れの速い幼児期にしてもせいぜいが数ヶ月単位くらいでしかその変化は認識できないし、歳を重ねるにつれ数年の違いさえ分からなくなる。五十歳を過ぎたある日、ん? 十年前はもう少し体、動いたはずだなと感じたりする。そういうものでしょう? ましてこの世界の、宇宙のタイムスケールはもっと長いのだから、人間の時間感覚なんて誤差にもならない。つまり、そんな細部に拘っていると、世界の本質を見失う、というかそもそも全く見えていないのではないか。この国は、人間と、人間の生きる場所からどんどん遠ざかっているような気がしてならない。芸術は、そういう価値観に必死で抗わなければならない。いつ来るとも知れぬ汽車を待ちながら、どこかで苦しむ人に寄り添い、足下の花を見つめるのだ。