大規模なものだからこそ持っているものというのはあるが、「多様性」についてであっても大規模なものなものであればあるほど、繊細なものは見えなくされるし、場はそこで強いものがもっている質に染められてしまう。
小規模なものに移って発見されるものの一つは、場から自分が顔をもった人格(⇄人格のない欲望の一断片)として尊重されて存在できることだろう。バズりのような大きな「刺激」、誰かに与えられる「サーカス」は結局は自分の日々生きている質をそれほど変えない。
場に顔をもった人格として存在できることは、同時に自分もその場の質を大切にする「作り手」だという意識も派生させる。使い捨ての意識で自分以外のものを認識し扱うこと自体が人と人の間の環境を痩せさせていくが、間の環境を育て合うなら場は肥えていき、その場の質が自分を回復させていく。
「プライベート」で神様としての「お客さん」にされてばかりいることは実際には世界に「自分なり」に直接関わって自らを世界の一部であると感じることを疎外し、絶望の澱を個々人の底に積もらせている。
規模を「人間化」することは、個々人の「人間化」と密接に関わっている。