広島とならぶ被爆地長崎。原爆は人類に対する犯罪であり、挑戦といっていいでしょう。「原爆投下は戦争終結を早め、結果として多くのアメリカ人兵士のみならず日本人の生命も救った」という「原爆神話」は今日では完全に否定されています。原発も含めて、まさに「核と人類は共存できない」ものです。その意味で、被爆の実相を伝え、その悲惨さを世界に知らしめることは「長崎」に課せられた使命と言ってもいいかもしれません。 しかし、その被爆の実相を語り伝えてきたはずの長崎で、意識的に、無意識的に「語られず」「闇に葬られてきた」影の部分があります。それこそが戦後の日本が出発する際に、原点ともなるべき重要なものであったはずなのですが‥‥ それは外国人被爆者、とりわけ韓国・朝鮮人被爆者および中国人被爆者の問題です。 【韓国・朝鮮人被爆者について】 原爆が投下された1945年当時、長崎県内には約7万人の朝鮮人が在住していたことが内務省警保局の資料により推定されます。そのうち約3万人が長崎市周辺に居住し、うち約2万人が被爆、約1万人が死亡した、と私たちは考えています。これは、朝鮮人被爆死者を「1400〜2000名程度」とする長崎市の見解とは大きな開きがあります。(詳しくは資料館で扱っている『長崎県朝鮮人被爆者調査報告書・原爆と朝鮮人第1集〜7集』をご覧下さい) この1万に及ぶと考えられる朝鮮人被爆死者は、しかし「ナガサキの原爆」を語るとき、長い間、意識的・無意識的を問わず、あまり言及されませんでした。元の長崎市国際文化会館(原爆資料館)には「外国人被爆者コ−ナ−」がありましたが、そこではアメリカ人・オランダ人・イギリス人など捕虜収容所での被爆についての言及はあったにもかかわらず、最大の外国人被爆者である朝鮮人、または中国人の被爆者については完全に黙殺していました。 「建物の中に朝鮮人被爆者コ−ナ−を作りなさい」と強く長崎市に迫ったのは岡正治さんでしたが、実現されず、1996年にリニュ−アルされた「原爆資料館」でも、一部で朝鮮人被爆者の証言を展示するなどの改善はありましたが、深刻な事実を明らかにするというには程遠く、かろうじて「朝鮮人被爆者も存在した」と認知したにすぎません。 このコ−ナ−では、そうした「隠されてきた」朝鮮人被爆者の実態を、写真と証言を中心に展示してあります。 【中国人被爆者について】 長崎市の現在の「平和公園」は、戦時中、浦上刑務支所が存在したところです。この浦上刑務支所には、1945年8月9日に82名の収容者がいましたが、原爆により全員、死亡しています。そして、この82名のうち、なんと32名は中国人であり、少なくとも13名は朝鮮人だったことが判明しています。なぜこれほど多くの中国人が浦上刑務支所に収容されていたのでしょう? 彼らは、1944年に、中国本土から拉致し日本で強制的に働かせる、という国家と企業が一体となって犯した「中国人強制連行」(その数は日本全体では約4万人に及びます)の犠牲者でした。長崎においては、高島・端島・崎戸・鹿町の4箇所の炭坑に連行されたのですが、そこで「治安維持法」や「国防保安法」違反の嫌疑をかけられた33名のうち、32名が浦上刑務支所に収容され、原爆により殺されたのです。なお、1名は警察の取り調べ段階で死亡しており、拷問的な取り調べが行われたことが強く推察されます。 中国河北省在住の牛秀連さんは、1993年に浦上刑務支所があった平和公園を訪れました。夫の呉福有さんがここで原爆死したことを、この年に初めて知ったからです。日本によって夫を奪われ、50年近くたって夫の無惨な死を知らされた、牛秀連さんの悲しみとつらさが展示してある写真からも伝わってきます。